モンテディオプレスぷらす「坂本稀吏也選手インタビュー」
【モンテディオ山形】「ダサい男」を変えた愛と、指揮官への熱き思い。DF 坂本稀吏也の“覚醒”の理由と現在地
明治安田J2・J3百年構想リーグもいよいよ最終戦。現在チームは8位と成績が伴わず、もどかしい状況にある。しかし、8月に幕を開ける新たなJ2リーグに向けて、立ち止まっている暇はない。
そんなチームにおいて、ひときわ眩い光を放っているのがDF坂本稀吏也選手(24歳)だ。
Jクラブのユースから興国高校への移籍、そして前線からディフェンダーへのコンバート。プロ入り後に味わった高い壁と挫折。一時は「ふてくされたダサい男だった」と自嘲する彼だが、最愛の伴侶の支えと、横内昭展監督の熱血指導によって自らの殻を破り、「守備の面白さ」に開眼した。
苦しい状況が続く今、「サポーターのため、監督のため、何がなんでも勝ちたい」と真っ直ぐに語る坂本。己と向き合い成長を求める大型ディフェンダーの本音に迫るロングインタビュー。
(取材日:2026年5月13日、写真は明治安田J2・J3百年構想リーグ戦より)
「少しの隙が命取りに。でも、チームは前を向いている」
Q:チームは現在8位と苦戦が続いていますが、坂本選手ご自身の成長は今季の大きな収穫だと感じます。ご自身ではどう捉えていますか?
率直に「まだまだだな」と思っています。試合に出させてもらっていますが、ただ出るだけではダメで、チームを勝たせられる選手にならなければいけません。結果に結びついていない要因は、90分を通してのちょっとした集中力の欠如や、小さな隙にあると感じています。
ただ、チームの雰囲気は決して下を向いていません。スタッフも交えたミーティングで課題を共有し、苦しい状況でも「絶対に試合に勝つための準備」を全員で徹底しています。結果を出せるよう、目の前の試合に全力で挑みます。

エリート街道からの決断。ユースから興国高校へ、そして守備への転向
Q:少し時計の針を戻して、坂本選手のルーツについて伺います。サッカーを始めたきっかけは?
5歳のころ、父がやっていた草サッカーについていくうちにボールに触れるようになり、自然と始めました。小学3年生からは「西宮SS」(堂安律選手らを輩出した兵庫県の強豪)に入りました。当時から身長が高く、フォワードで「自分で点を決めてなんぼ」という感覚だったと思います。負けず嫌いで、週6日は練習していました。両親が共働きだったこともあり、小学1年生のころから一人で電車に乗って練習に通っていましたね。両親から「サッカーをしなさい」といったことを言われたことがなく、例えば練習に行きたくないとこぼした時も、「じゃあ休んだらいいんじゃない?」と僕の意思を尊重してくれました。
Q:その後スカウトされ、Jリーグの下部組織であるセレッソ大阪西U-15へ進みます。
ありがたいことに声をかけていただき、セレクションも受けずに入団が決まったと思います。中学2年の時には上の学年に呼ばれて全国大会にも出場。中学3年の時はけがが多かったんですが、12月の高円宮杯に出場しました。朝にサッカーの準備をして、学校から帰るとすぐに電車でグラウンドへ。サッカーを優先し体育祭も修学旅行も参加できず…そんな中学時代でした。
Q:そしてセレッソ大阪U-18へ昇格を果たし、試合にも出て活躍する中、高校3年になる直前で高体連の興国高校へ移籍されました。そこにはどのような葛藤や決断があったのでしょうか?
中学時代は絶対にU-18へ昇格したいと思っていました。ただ、実際にジュニアユースから上がれたのは僕を含めて3人という狭き門でした。高校1年の時には上の学年に交じってプレミアリーグにサブで出場し、国体メンバーにも選ばれました。高校2年の時はけがも多く、そこで将来について真剣に考えたんです。 自分の中で「高校を卒業したら、絶対にプロになりたい。大学には行きたくない」という強い思いがありました。セレッソU-18は個を重視するスタイルで、高いレベルの中でも試合には出ていましたし、充実感はあったんです。でも、その目標から逆算した時に、今のままの、体格に頼っているプレーでは足りない、環境を変えて勝負するべきじゃないかとすごく考えて。
当時通っていた興国高校の同級生から、興国高校の内野智章監督は、身体能力に頼るのではなく足元の技術や戦術理解に特化し、個人にアプローチする指導をしていると聞き、自分に必要なのはここなんじゃないかと強く思いました。ただ、移籍してもプロになれる確証はなく、本当に悩みました。セレッソU-18のスタッフや親、そして内野監督ともたくさん話しました。内野監督からは「覚悟を決めてくるなら受け入れる」と言われ、親も「自分で決めたならいいよ」と僕を信じてくれました。あの決断がなければ今の自分はないですし、人生の大きなターニングポイントでしたね。

Q:興国高校では、フォワードからディフェンダーへのコンバートも経験されました。
移籍してすぐに試合に出ていて、内野監督から「ボランチをやってみないか」と言われたんです。当時は点を取るよりゲームを作ったりアシストしたりするのが好きでしたし、内野監督の戦術理解のもとで深くサッカーを学びたかったのでフォワードにこだわる理由はありませんでした。そして夏ごろ、リーグ戦で、サイドバックの選手がけがをして、たまたま僕がサイドバックでプレーしていたんです。そこにプロのスカウトの方が見に来ていて、練習に参加しないかと声を掛けてもらいました。
「え、何これ?」奇跡的なタイミングでつかんだプロへの切符
Q:高校3年でプロ入りをつかみ取るまでの経緯について教えてください。複数のJクラブの練習に参加されたそうですね。
はい、夏から秋にかけて、横浜F・マリノスやレノファ山口FC、東京ヴェルディの練習に参加させてもらいました。マリノスではサイドバックだけでなく、センターバックにも挑戦したんです。「サイドができればセンターもできるだろう」という感覚だったようですが、自分としてはどちらもほぼ素人で。そこから「山形に来ないか」と声をかけていただいて。すぐにオファーをもらいました。本当にトントン拍子で、自分でも「え、何これ?」と思うくらい奇跡的なタイミングでした。
Q:マリノスなど他クラブのオファーを待つという選択肢はなかったのですか?
未練や待つ気持ちは全くなかったです。当時の山形はピーター・クラモフスキー監督で、ボールをしっかりつなぐ自分の大好きなサッカースタイルでした。それに何より「絶対にプロになりたい」という思いが強かったので、一番最初に正式なオファーをくれた山形に行くと即決しました。
へし折られたプライド。J1での経験と、プロの厳しさ
Q:そうして見事プロ入りをつかみ取り、山形へ加入します。プロ入り後の歩みを振り返りたいのですが、1年目から4年目まではどのようなシーズンでしたか?
1年目は、自分の強みである左足のビルドアップは通用する感覚があったのに、全然試合に絡めませんでした。当時はフォワード上がりの変なプライドがあって、「ディフェンスをしていても、前から来るフォワードのプレッシャーを剥がせばオッケー」くらいに思っていたんです。通用していた部分もあって変な自信があった分、守備そのものは全然楽しくなかったですね。
でも、2年目にJ1のサガン鳥栖へレンタル移籍して、川井健太監督のもとで「自分には足りないところだらけだ」と思い知らされました。そこで変なプライドを見事にへし折られて(笑)。それからは、食事や筋トレ、体のケアなど、サッカーにかける時間を圧倒的に増やすようになりました。J1という意識の高い環境に身を置けたことは大きかったですね。

「ダサい男」を変えた奥様の存在と、横内監督との出会い
Q:3年目に山形に復帰しましたが、そこでも壁がありました。
そうですね。鳥栖で自分を変えて山形に戻り、チームはイケイケで勝っていたんですが、自分はクローザーとしての途中出場が多く、もどかしさがありました。
実は以前は、試合に出られなかったり面白くないことがあるとふてくされて引きずる「めちゃくちゃダサい男」だったんです(笑)。でも、山形に戻って一緒に住み始めた今の奥さんの存在が僕を変えてくれました。試合に出られず悩んでいた時も、僕のまとまらない話をたくさん聞いて、支えてくれたんです。このプロ3年目や、一番苦しかった北九州への移籍時代も彼女がいてくれたから乗り越えられました。彼女と結婚したいという覚悟もあり、「自分が変わらないとダメだ」と客観的に自分を見つめ直せるようになったんです。
Q:そしてプロ4年目の昨夏、北九州への期限付き移籍から山形へ復帰し、現在の横内昭展監督と出会います。ここで「守備に開眼」したそうですね。
はい。山形に帰ってきて最初の1対1の練習で、ヨコさん(横内監督)が練習を止めて、「もう1歩寄せろ!」とものすごく熱く言われたんです。それはもう、言葉はあれですが「しつこい」くらいに。それまでの4年間、僕は攻撃のことばかり考えていて守備への意識が甘かったんですが、ヨコさんの言葉で自分の中の基準がガラッと変わりました。ここに来て初めて守備の奥深さを知り、究めてみたいと覚悟が決まりました。そして5年目の今年は試合に出て新たな課題が次々と具体化され、それを練習で克服していく。そんな良い循環ができていると思います。さらにヨコさんは「自分の良さを出していけ。そうでなければ生き残っていけない」と何度も言葉をかけてくれます。なので自分の強みである、左利きを生かした自分起点のビルドアップや、ドリブルでの持ち上がりにもどんどん挑戦していきたいです。
Q:結果が伴わずチームとしても苦しい時期が続いていますが、選手から見て横内監督はどのような指揮官ですか?
選手と正面から真っ直ぐ向き合ってくれる監督です。
ヨコさんは毎試合、ストレートにフィードバックをくれます。でも、ただ押し付けるんじゃなくて、まず僕たちに「今日のプレー、自分ではどうだった?」って意見を聞いてくれるんです。1対1でちゃんと対話をしてくれるからこそ、僕らも納得して課題に取り組めるんです。
練習中は厳しい時もありますが、選手をこれだけ信じて、寄り添ってくれるヨコさんのために、僕たちは何がなんでも結果を出したい。監督を絶対に勝たせたい。チーム全員がそう強く思っています。

「質問魔」として高みへ。次こそ勝利を。
Q:その前向きな思いが、「質問魔」としての姿勢にも繋がっているんですね。
はい。分からないことはすぐに何でも聞くようにしています。試合の翌日、もしくは試合直後でも、DAZNの映像を見せながら「ここのクロス対応どう思いますか?」などとすごく細かく聞くこともあります。もやもやが残ったままなのは気持ちが悪いですし、下を向いている暇はありませんから! センターバックは年上の先輩ばかりで、こんな後輩はめんどくさいかもしれませんが、皆さん嫌な顔一つせず、適当にあしらわれたことは一度もありません。特にニシくん(西村慧祐選手)はどんなときも、何でも丁寧に答えてくれます。ディフェンスラインのコントロールなどを細かくすり合わせていて、4月に失点ゼロで3連勝した時は、その当たりがうまくいったと手応えを感じました。今はやはり、クロス対応で相手選手に付くときの距離感が課題です。
Q:今季はどのような決意で臨んだのでしょうか。
百年構想リーグという昇降格のないリーグは僕にとってチャンスでしかなく「何がなんでも、絶対に試合に出る」という過去一番強い気持ちでキャンプからアピールを続けました。なので開幕スタメンを取れなかった時はとても悔しかったです。今は試合に出させてもらっていますが、やはり出るだけではダメで、もっと成長してチームに貢献したいです。
Q:個人としての目標を聞かせてください。
思い描いたようなサッカー人生ではないし、まだまだだと思っています。一日一日を大切に、守備の選手としてもっと上を目指したいです。目下の目標は、とにかく「失点ゼロ」にこだわること。ディフェンス陣がゼロで抑えれば、チームが負けることは絶対にありません。残りの試合は、守備の人間として無失点にこだわり、達成していきたいです。
Q:最後に、サポーターの皆さんへメッセージをお願いします。
サポーターの皆さんが求めているのは、やはり「結果」だと思います。僕らがどれだけ日々のトレーニングで必死にやっていても、ピッチでの結果がついてこないと皆さんに思いは伝わりません。今は勝てていなくて本当に申し訳ない気持ちですが、チーム全員が「何がなんでも勝ちたい」という強い気持ちを持っています。次こそサポーターの皆さんとスタジアムで喜び合えるよう全力で戦います!
Q:ちなみに……今、頭の中はサッカーが何割ですか?
50対50ですかね(笑)。結婚したので奥さんのことも大事です。奥さんのためにも、サッカー頑張ります!
【プロフィル】坂本稀吏也(さかもと・きりや)2003年生まれ、兵庫県神戸市出身。
西宮SS-セレッソ大阪西U-15-セレッソ大阪U-18-興国高校を経て2022年にモンテディオ山形に入団。23年はサガン鳥栖へ期限付き移籍。25年はギラヴァンツ北九州に育成型期限付き移籍をするも8月から山形へ復帰。26年の百年構想リーグでは3月の第8節から10戦連続スタメン出場中。
〈これまでのプレスインタビュー〉
◎岡本一真選手【後編】(2026.05.09掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/1434)
◎岡本一真選手【前編】(2026.05.02掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/1441)
◎寺山翼選手(2026.04.11掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/1338)
◎南秀仁選手(2025.11.28掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/542 )
◎堀金峻明選手(2025.10.18掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/446)
◎横内昭展監督(2025.09.01掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/87)
◎中村亮太郎選手(2025.09.01掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/196)







