「自分だけJ1へは行けない」
全盛期を山形に捧げた南秀仁選手の真実
モンテディオ山形の心臓部として、ピッチ上で誰よりも美しい放物線を描き続けた背番号18。9年もの長きにわたり、山形の勝利のために戦い続けた南秀仁選手が、今季限りでの現役引退を発表しました。高校生での衝撃的なJリーグデビューから、山形で過ごした充実の日々、そしてスパイクを脱ぐ決断の裏側まで。サポーターへの感謝と共に語ったロングインタビューをお届けします。
夏休みの練習参加、0-3からの衝撃デビュー
―まずはプロ生活15年、本当にお疲れ様でした。時計の針を戻すと、東京ヴェルディユース時代、高校2年生でのJリーグデビューとゴールが衝撃的でした。
ありがとうございます。実はあのデビューは、いろんな偶然が重なったものでした。当時は夏休みで、調子が良かったこともありトップチームの練習に来いと言われて参加していたんです。そうしたらFWにけが人が続出してしまって。当時の川勝良一監督がメンバーに入れてくれました。デビュー戦も、0-3で負けていて『もう負けだな』という雰囲気の中で、『使ってみるか』というノリで出させてもらったんです。そうしたら、たまたま点を決めちゃって(笑)。何の責任も背負わず、ただ『プロの試合だ!』と楽しんでいただけなので、本当に運が良かったですね。
―そこからプロの壁も経験されたのでしょうか。
そうですね。高校を卒業しいざプロ契約すると毎日が戦いでした。素晴らしい先輩たちの中で、夏休みだけじゃなくこの強度が毎日続くのかと思うと、『これは厳しいな』と…。もがきながら何とかやっていた感じです。2年目、当時JFLだった町田ゼルビアへ期限付き移籍して環境を変えたことは、試合に出られず腐りかけていた自分にとって良いリフレッシュになりました。ヴェルディに戻ってからは、当時の監督の攻撃的なサッカーと自分のスタイルがマッチして、得点を重ねることができました。
―2015年にはチーム得点王にも輝きました。当時のエピソードはありますか?
当時は右サイドハーフをやっていたんですが、後ろの右サイドバックに田村直也さんという守備のすごい先輩がいて。『もう守備しなくていいから。点取ってアシストだけしてこい』と言ってくれたんです。だから、ほぼ守備をせずに攻撃に専念しての10得点でした(笑)。本当に周りのおかげですね。

「考えすぎると失敗する」直感で選んだ山形
―2016年12月に山形へ完全移籍をされました。当時は他のオファーもあったといいますが、なぜ山形だったのですか?
直感ですね。当時、環境を変えたいと考えていた時期に、最初に熱心に声をかけてくれたのが木山隆之監督(当時)でした。『秀仁のような選手が一人いてくれると助かる』と言われて、その場で『行きます』と即決しました。僕は直感を信じるタイプなんです。あれこれ条件を比較して考えるのが好きではないというか…。いろいろ考えた時のほうが失敗するんですよ。あの時の直感は間違っていなかったと思います。
「サボり癖」から司令塔へ。転機となったコンバート
―山形での9年間で、プレースタイルも大きく変わりました。特に2021年のボランチへのコンバートは大きな転機だったと思います。あれはどういう経緯だったのですか?
あれは石丸清隆監督が解任になって、佐藤尽さんが監督代行になったタイミングでした。当時、僕はトップ下で、山田康太がボランチをやっていたんです。そこで尽さんが『もう少し低い位置からしっかりボールを繋いでいきたい』という意図で、康太と僕の位置を入れ替える判断をしました。それで3試合ほどやってみたら感触がすごく良くて。その後、ピーター・クラモフスキー監督が就任してからも、そのままその形が定着しました。
―言われた時は、どう受け止めましたか?
攻撃面で後ろと前を繋ぐ作業はできる自信がありました。ただ、守備に関しては正直不安でしたね。それまでは、いかに守備をサボって点を取るか、どうやってうまくごまかして体力を温存するか、みたいなことばかり考えて生きてきたので(笑)。前線ならそれでも許される部分がありましたが、さすがにボランチでそれはできませんから。『守備、大丈夫かな…』と思いながらやっていました。

―実際にやってみて、どうでしたか。前のポジションへのこだわりは?
正直、一人の選手として一番才能を発揮できて、やっていて楽しいのは前線のポジションだという思いは今もあります。自分が一番生き生きするのはそこだな、と。ただ、ボランチを4年くらいやってみて、また違う楽しさに気づきました。自分のパス一つでチームが急ぐのか、落ち着くのか。どこから攻めるのか。試合の舵を取りながら、頭を使ってプレーする面白さはボランチの方がある。自分が中心になって試合を進めていく、別のやりがいを感じられるようになりました。
―ご自身の強みである「人を活かすプレー」にも磨きがかかりました。
前線をやっていた時も、奪ってドリブルしてゴールを決める…というより、昔から自分の良さは『人の良さを引き出すこと』だと思っていました。普段80%ぐらいしか出せない選手の力を、100%引き出す。例えば、ヴィニシウス・アラウージョ選手がいた時も、僕と組んでから10点くらい取ってくれた。ポジションが下がっても、スルーパスや人を活かす役割は変わらず、選手として一段階大きくなれたと思います。
―振り返って、最も印象に残っているシーズンは?
キャプテンを務めた2022年ですね。プレーオフで引き分けて昇格は逃しましたが、監督、選手、戦術のすべてが噛み合っていました。主将の責任、プレーオフで決めたゴールも含め、やっていて心から楽しいと感じられるシーズンでした。

腐らず、背中で見せる。後輩たちへの思い
―昨季(2024年)は途中からサブに回ることも増えました。率直に、どのような心境でしたか。
正直、悔しい思いはありました。前半戦、自分のパフォーマンスがあまり良くなかった自覚があり、それをナベさん(渡邉晋監督)も分かっていたのだと思います。終盤の9連勝も自分はあまり絡んでおらず、チームとしてのパフォーマンスが良くても悔しさを感じていました。でも、だからといって腐ったり、適当にやったりすることは絶対にしませんでした。

―モチベーションをどう保っていたのですか。
そもそも毎日大好きなサッカーができること自体がモチベーションですから。それに、若い選手は上の選手たちの振る舞いを本当によく見ています。僕自身、若い頃に試合に出られなくて『もう移籍してやる』とふてくされたり、練習で手を抜いたりする先輩を見たことがありました。そういう姿は絶対に見せてはいけない。過去からの学びですね。悔しさを表に出さず、プロとしてやるべきことをやる。ここ1年くらいは特にそれを心がけていました。
山形に捧げた、全盛期の9年間
―サッカー選手として一番脂の乗った時期を山形で過ごされました。正直、他クラブへの移籍という選択肢もあったはずです。
まあ、それは…。でもここにいるということは、それを断ったということです。オファーをいただいた時、『自分だけJ1に行くのか、それともあと一歩のこのチームをJ1に上げるのか』を自問自答しました。その時、お金やカテゴリーよりも、『山形で上がりたい』という想いが勝ったんです。自分が主力として試合に出ていて、あと少しで手が届きそうなのに、自分だけチームを離れることはできませんでした。
―その選択に、後悔はありませんか?
全くありません。もし違う道を選んでいたらどうなっていただろう、という興味は少しありますけど、後悔はゼロです。結果的に行かなかったことで、これほど山形の皆さんに愛してもらうことができた。それは僕の人生の財産ですし、移籍していたら得られなかったものです。だから、自分の選択は間違っていなかったと胸を張って言えます。

「100%でなければお金は貰えない」引退の真相
―早めの引退発表でした。
最後に『辞める』と分かった上で、僕がサッカーに取り組む姿を見てほしかったんです。一日一日、プロとして過ごせる時間を噛みしめています。
―まだやれるのでは、と惜しむ声も多く聞かれます。決断の最大の理由は何だったのでしょうか。
一番の原因は腰のヘルニアです。これまで2度罹患していて、特に2022年はひどくて左足にまひが出るほど。手術を決断し、素晴らしいドクターのおかげで復帰できましたが、年々思うように体に力が入らなくなってきて…。大好きなサッカーを、痛みやストレスを抱えながらプレーするのは辛かったです。自分が100%の状態でプレーできて、初めてお金を受け取れる仕事だと思っています。試合に出る出ないに関わらず、日々100%で取り組めるか。それができなくなった時点で、退くべきだと考えました。
―クラブに伝えた時の反応は。
山形のフロントとは本当に長い付き合いなので、最初は半信半疑のようでした。強化部の方も僕から『辞める』という話が出るとは思っていなかったようで…。でも、しっかりと自分の思いや体の状態を伝えたら、最後は『そういう決断なら尊重する』と受け入れてくれました。まだ契約は残っていましたが、僕の意思を汲んでくれたことに感謝しています。
―例えばカテゴリーを落として現役を続ける、という選択肢はなかったのですか?
僕の中にはそういう選択肢はなかったですね。
―ご家族の反応はいかがでしたか。
妻はずっと僕の状態を見てきたので、『これ以上ひどくならないうちに辞めるのは安心した』と言ってました。『これまでたくさんの試合を見せてもらって、楽しませてもらった』とも言ってもらいました。あまり僕がサッカー選手であることにこだわる人ではないので、体のことを一番に心配してくれていました。

未来へ向けて、サポーターへのメッセージ
―ピッチ外のことも伺います。都会育ちの南選手ですが、山形の暮らしはどうですか?
『山形は何もない』なんて言う人もいるそうですが、僕は全く思いません。おいしいご飯があって、仕事があって、自然がある。物欲があまりない僕にとっては、これ以上ない環境です。この土地の空気感が、すごく肌に合っていたんだと思います。
―性格も変わりましたか?
来た当初は不愛想でそっけないタイプだったと思いますが、山形に来てすごく穏やかになりました。サポーターの皆さんが温かくて、人との関わりの中で角が取れたというか。昔を知る人には『優しくなった、表情が柔らかくなった』と驚かれます。それは昔がひどかったというのもあるんですが(笑)、褒め言葉として捉えています。
―今後のビジョンはありますか?
まだ具体的ではありませんが、子供たちと一緒にボールを蹴る機会を作りたいですね。僕は『教える』というより、上手い人のプレーを見て『盗む』のがサッカーだと思っています。だから、僕と一緒にプレーすることで、子供たちが勝手に何かを感じて、盗んでくれたら嬉しいです。
―サッカー以外の道への興味は?
ずっとサッカーだけしてきたので、他の分野の仕事にも興味があります。地元の友達に大工さんなど建築関係が多いので、もしサッカー選手じゃなかったら、友達とそういう仕事をしていたのかなという思いはありますね(笑)

―後輩たちへ伝えたいことは。
みんな才能があるからこそ、プロサッカー選手になれているはずです。試合に出ている選手も、出ていない選手もいますが、山形の後輩たちは腐ることなく一生懸命やっている。キャンプで出会った頃より断然成長しています。偉そうなことは言えませんが、毎日毎日やっていれば必ず成長するし、必ず誰かが見てくれています。みんなにはこれからも頑張ってほしいです。
―最後に、山形のファン・サポーターへメッセージをお願いします。
山形に来て、僕の人生は本当に良い方向に進みました。心から『山形に来て良かった』と思っています。家族をはじめ、サポーターの皆さん、クラブの皆さん、本当に多くの方に支えていただいたおかげです。この9年間、山形の皆さんには感謝しかありません。本当に、ありがとうございました。

〈これまでのプレスインタビュー〉
◎横内昭展監督(2025.09.01掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/87)
◎中村亮太郎選手(2025.09.01掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/196)
◎堀金峻明選手(2025.10.18掲載)(リンク:https://yamagatadoor.com/montedio/446)



